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理事長を動かすには保護者を味方につけるのが得策

英語の先生

外国人先生の入れ替わり、さらには問題発生もあり・・・

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【インターナショナル幼稚園編 STORY 09】

お読みいただく前に…

これは30年以上前の話です。社会情勢や法律など、現代と大きく異なっています。今では考えられない出来事もありますが、そんな時代もあったのかと広い心でご覧いただければ幸いです。

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始発から終電までの勤務に身体が悲鳴を上げる

終電に間に合わない日もしばしば。運転免許を取得するしかない

 開園当初より残業は当たり前、毎日仕事に追われていました。駅へのバスは22時過ぎが最終、仕事が長引けばタクシーを呼んで駅に向かったものです。行事前ともなれば終電を逃すことも多く、母に迎えにきてもらうこともあるほどでした。そこで思いついたのは、運転免許の取得です。電車とバスを乗り継いで通うと1時間以上かかる道のりも自動車なら30分あまり。通勤時間も短縮されるでしょう。と言っても教習所に通う時間などありません。他に考えられるのは、運転免許試験場で直接試験を受けること。

飛び込みと言われる試験はかなり難易度が高いようで、運動神経の良い男性でも1度で合格するのは難しく、複数回の受験は必須と聞いていました。詳しい内容を聞けば聞くほど腰が引けたのですが、そうも言っていられません。運転手の坂田さんにご指導いただき、土曜日の午後や休日を返上して練習。筆記試験に向けての勉強も怠りませんでした。その結果、2度目の試験で無事合格。晴れて自動車通勤できるようになったのです。

時間を気にする必要なし。自動車通勤で残業時間が長くなる

 自動車通勤により通勤時間が短縮。朝も少し余裕ができたと喜んだのも束の間、帰宅時間はどんどん遅くなりました。最終電車の時間を気にする必要がなくなったからです。幼稚園を出るのが0時を過ぎることも出てきました。次々と降って沸いたように増える仕事、どれほど頑張っても一向に減る気配はありません。3学期は次年度に向けての準備もあり、文字通り休む間もなく働いていたように思います。1年を通じ、毎日が繁忙期。そんな生活に身体がSOSを出していたのでしょう。初年度を終えた春休み頃から少しずつ不調を感じるようになるのです。

外国人先生の入れ替わりが激しい! 契約遵守でも働きにくい職場

 初年度の修了式を最後にラフィは退職。1年ごとに見直される契約を更新せず、母国に戻ることになりました。ハードワーク過ぎるという理由は納得できませんでしたが、理事長のコロコロ変わる方針に振り回されるのが大変だったのでしょう。ようやくコミュニケーションを取れるようになっていたので、本当に残念でした。

 ラフィの辞職に伴い、新たに採用したのはジェニー。陽気な白人女性です。日本語は理解できないものの保育の経験はあると聞いていました。が、彼女もなかなかの強者でした。言われても動かない。頼んだこともやってくれない。おまけに園児の体調の変化にも気づかない。いったい何をしに来ているのという感じです。今や理事長の目は彼女に一極集中。すぐ解雇にするつもりも後任が見つからず、運動会を終えた頃、園を去ることに。在籍期間は半年ほどでした。ジェニーの後任はアン。日系アメリカ人でした。見た目は完璧な日本人。園児も初日から駆け寄っていましたが、全く日本語が喋れず、園児との距離は縮まりません。控えめな人柄も災いしたのでしょう。たった5ヶ月で退職することになりました。

 日本人の私からすれば、外国人先生の待遇は夢のようです。何と言っても契約書という大きな盾に守られていましたから、すぐに辞めるなんて信じられませんでした。そんな恵まれた待遇でも辞めたくなるということは、よっぽど働きにくい幼稚園だったのでしょう。2年目を終えると同時に、開園時から一緒に働いてきたベスも契約を打ち切り、帰国する運びとなるのです。

次は保護者と理事長の板挟み。保護者の味方になると決意する

 働きがいのない職場にもかかわらず、私は3年目に突入します。その頃「私がいなければ、園児と保護者に迷惑をかける」という思いが強くなっていました。実際に困ったことがあれば相談されるのは私。クレームもたくさんありました。理事長に雇われているのですから、私は園側の人間です。しかし、理事長の意見に振り回される生活を送っていたため、保護者の意見には共感しかありません。保護者も職員も同意見となれば、職員ではできなかった改革も成し遂げられるかもしれないと思うようになりました。理事長を批判することはできませんが、保護者の言葉をそっくりそのまま理事長に話すようにしたのです。

何も変わらぬ状況に心も体も弱り果て、平熱は38℃に

 オーバーワークに睡眠不足が重なり疲れは取れません。プール遊びがあるたびに膀胱炎を発症するように鳴りました。なんとか踏ん張っていましたが、とうとう身体は悲鳴を上げます。一向に熱が下がらなくなり、過労からくる腎炎だと診断されました。休養が必要だと言われても休むわけにはいきません。平日は相変わらずの激務をこなし、土曜日は通院。毎週の点滴が頼みの綱でした。薬を服用しているにもかかわらず、いつも体温は38℃超え。発熱が続くと身体も慣れていくのですね。当時の私は38℃でも辛いと思わず、通常通りの生活を送っていました。

 何より困ったのは、泣きたいと思っていないのに涙が出てくることでした。日曜日の夜が近づくと、涙が止まりません。気づかぬうちに心まで病んでいたのでしょうか。それでも月曜日の朝になれば出勤し、いつも泣きはらした目で仕事をしていました。

 そんな生活が半年ほど続いた頃、いつものように点滴をする私に主治医がこう告げました。「若いから大丈夫なわけじゃない。油断すれば取り返しのつかないことになる。このままでは腎不全になるかもしれない」と。健康だけが取り柄だと思っていた私はショックで声も出ません。「今ならまだ間に合う。仕事を辞めるか、それとも入院を覚悟するか」という主治医の言葉で事の重大さを知りました。家に帰っても心ここにあらず。こんな状況になっても辞める決心はつきません。どうすればいいのかと私の苦悩は続きました。

続く

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「英検2級の実力しかない私が、20年以上英語教育に携わってきた話」は主人公である高山杏の体験をもとにしたフィクションです。実在の人物、設定は架空のものです。

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